アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち THE EICHMANN SHOW / 2016 / UK
STORY
1945年9月2日、人類史上最大の犠牲者を出した第二次世界大戦が終戦を迎えた。死者5千万人、その内の600万人がユダヤ人であった。
ヒトラー政権下のナチスが行った残虐行為が明らかになるにつれて、重要な戦犯として、浮かび上がってきたひとつの名前があった――アドルフ・アイヒマン。“ユダヤ人問題の最終的解決”、すなわちユダヤ人絶滅計画を推し進めたナチ親衛隊の将校である。戦後、一旦は米国軍によって拘束されるが、偽名を使い、捕虜収容所から脱出。ドイツ、イタリアなどを点々とし、1950年、親ナチだったファン・ペロン政権下のアルゼンチンに密かに渡っていた。家族を呼び寄せ、リカルド・クレメントの名前で生活していたが、1960年、ついにイスラエル諜報機関は、そんなアイヒマンを追いつめ、ブエノスアイレス市内で身柄を拘束した。終戦から15年後のことである。イスラエルへ移送されたアイヒマンは、エルサレムの法廷で裁かれることになった。
1961年、エルサレム。革新派の敏腕TVプロデューサー、ミルトン・フルックマンは、アドルフ・アイヒマンの裁判を世界中にテレビ中継するという前代未聞の計画の実現に向けて、全力を注いでいた。
「ナチスがユダヤ人になにをしたのか、世界に見せよう。そのためにテレビを使おう。これはテレビ史上、最も重要な事件となるだろう。過去、現在、そして未来においても」
この“世紀の裁判”の撮影にあたって、フルックマンは、最高のスタッフを集めたいと考えた。監督として白羽の矢が立てられたのは、米国のドキュメンタリー監督レオ・フルヴィッツである。ロシア移民としてブルックリンで育ったフルヴィッツは、マルチカメラを用いたスタジオ放送の草分け的存在だ。その仕事は高く評価されていたが、反共産主義に基づくマッカーシズムの煽りを受け、ブラックリストにあげられたため、10年以上も満足に仕事ができていなかった。彼にとっても、このアイヒマン裁判は、大きな賭けだった。
エルサレムに着いたフルヴィッツは、フルックマンが編成した撮影チームとともに急ピッチで準備を始める。フルックマンは、裁判を撮影できるように判事たちに根回しを始めた。だが、存在感のあるテレビカメラが裁判の妨げになる。法廷の壁を改造して、隠しカメラを設置するアイデアによって、なんとか撮影許可を得るが、一方で、フルックマンの元には、ナチスシンパなどから脅迫状がくるなど圧力は増す一方だった。
また、フルヴィッツは、アイヒマンをマスメディアが騒ぎ立てるような“モンスター”ではなく、ひとりの人間としての彼の姿をカメラで暴き出したいと考えていた。
「“モンスター”などいない。だが、人間は、自分が行った怪物的な行為に対して責任をとる必要がある。なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子供を死に追いやる人間に変えたのか。我々は、状況下によっては誰でもファシストになる可能性があるのだ」 スタッフの中には、そうしたフルヴィッツのリベラルな考え方に反発を唱えるものもいた。
「アイヒマンは、私たちと同じ人間ではない。私は、アイヒマンのようには決してならない」
それぞれの思惑と野心、信念が交錯するなか、裁判は始まった。
4ヶ月に渡る裁判の間、撮影された映像は、すぐに編集され、世界37カ国で放映された。
衝撃的な証言や映像は、世界中の視聴者を驚かせた。だが、アイヒマンは、来る日も来る日も悔恨どころか顔色ひとつ変えずに、淡々と罪状を否定し続けた。そんな中、フルヴィッツのいら立ちは最高潮に達していった……。
ヒトラー政権下のナチスが行った残虐行為が明らかになるにつれて、重要な戦犯として、浮かび上がってきたひとつの名前があった――アドルフ・アイヒマン。“ユダヤ人問題の最終的解決”、すなわちユダヤ人絶滅計画を推し進めたナチ親衛隊の将校である。戦後、一旦は米国軍によって拘束されるが、偽名を使い、捕虜収容所から脱出。ドイツ、イタリアなどを点々とし、1950年、親ナチだったファン・ペロン政権下のアルゼンチンに密かに渡っていた。家族を呼び寄せ、リカルド・クレメントの名前で生活していたが、1960年、ついにイスラエル諜報機関は、そんなアイヒマンを追いつめ、ブエノスアイレス市内で身柄を拘束した。終戦から15年後のことである。イスラエルへ移送されたアイヒマンは、エルサレムの法廷で裁かれることになった。
1961年、エルサレム。革新派の敏腕TVプロデューサー、ミルトン・フルックマンは、アドルフ・アイヒマンの裁判を世界中にテレビ中継するという前代未聞の計画の実現に向けて、全力を注いでいた。
「ナチスがユダヤ人になにをしたのか、世界に見せよう。そのためにテレビを使おう。これはテレビ史上、最も重要な事件となるだろう。過去、現在、そして未来においても」
この“世紀の裁判”の撮影にあたって、フルックマンは、最高のスタッフを集めたいと考えた。監督として白羽の矢が立てられたのは、米国のドキュメンタリー監督レオ・フルヴィッツである。ロシア移民としてブルックリンで育ったフルヴィッツは、マルチカメラを用いたスタジオ放送の草分け的存在だ。その仕事は高く評価されていたが、反共産主義に基づくマッカーシズムの煽りを受け、ブラックリストにあげられたため、10年以上も満足に仕事ができていなかった。彼にとっても、このアイヒマン裁判は、大きな賭けだった。
エルサレムに着いたフルヴィッツは、フルックマンが編成した撮影チームとともに急ピッチで準備を始める。フルックマンは、裁判を撮影できるように判事たちに根回しを始めた。だが、存在感のあるテレビカメラが裁判の妨げになる。法廷の壁を改造して、隠しカメラを設置するアイデアによって、なんとか撮影許可を得るが、一方で、フルックマンの元には、ナチスシンパなどから脅迫状がくるなど圧力は増す一方だった。
また、フルヴィッツは、アイヒマンをマスメディアが騒ぎ立てるような“モンスター”ではなく、ひとりの人間としての彼の姿をカメラで暴き出したいと考えていた。
「“モンスター”などいない。だが、人間は、自分が行った怪物的な行為に対して責任をとる必要がある。なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子供を死に追いやる人間に変えたのか。我々は、状況下によっては誰でもファシストになる可能性があるのだ」 スタッフの中には、そうしたフルヴィッツのリベラルな考え方に反発を唱えるものもいた。
「アイヒマンは、私たちと同じ人間ではない。私は、アイヒマンのようには決してならない」
それぞれの思惑と野心、信念が交錯するなか、裁判は始まった。
4ヶ月に渡る裁判の間、撮影された映像は、すぐに編集され、世界37カ国で放映された。
衝撃的な証言や映像は、世界中の視聴者を驚かせた。だが、アイヒマンは、来る日も来る日も悔恨どころか顔色ひとつ変えずに、淡々と罪状を否定し続けた。そんな中、フルヴィッツのいら立ちは最高潮に達していった……。
Dramatisation of the team hoping to televise the trial of Adolf Eichmann, an infamous nazi responsible for the deaths of millions of Jews. It focuses on Leo Hurwitz, a documentary film-maker and Milton Fruchtman, a producer.
- 監督
- Paul Andrew Williams
- 出演
- Martin Freeman, Anthony LaPaglia, Rebecca Front, Andy Nyman